雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

面白さ

 僕の感想文はだいたい作品に対して肯定的だ。

 

よほどのことがない限り「面白かった」と言わないときがない。言わないのは、本当につまらないと感じたときか、他に書くべきことが多すぎてわざわざ面白さに言及するまでもないときだ。

 それだけ「面白かった」を量産しているのだから、それぞれの「面白かった」の内実は形骸化しているのではないか、社交辞令の一種なのではないか、と思われるかもしれない。

 けれど、思い返してみても、お世辞で「面白かった」と言った覚えはない。「面白かった」と言うからには作品のどこかで面白かったポイントを上げている。

 どうしてなのかといえば、嫌なところをひとまず見ないでいるからだ。作品で一番よかったところを取り出して評価すれば、大抵の作品は面白かったと言える。少なくとも世に売り出そうとしている作品ならば、どこかしらに力が入っているはずなので、要はその力の入っているところを汲み取ってあげればいい。

 ここまでが、一般論だ。このようにすればだれでも肯定的で、読むのにもつっかえない感想文が書けるようになる。もしも読み手が対象の作品のことを好きならばすぐに満足げに気に入ってくれるだろう。

 一般論の下地にあるのは普遍性だ。誰もが納得するような感動のポイントには普遍性がある。誰が読んでも、一応は反応を示してくれるであろうポイントだ。このポインおを抑えれば、とても平和なまま感想を述べることができる。

 だけど、ときには予期せぬところで感動が起こる。大したことはないはずの文章を目にして、どういうわけだか涙腺が刺激されたり、心臓の鼓動が速くなったり、鳥肌が立ったりする。

 『冷たい校舎の時は止まる』を読んだときがそうだった。あの作品の最終章に差し掛かり、全ての謎が解き明かされたとき、僕は止めどない感動に襲われた。しかしその内容はとても普遍性があるとは呼べない代物だった。悪く言えばオカルトチックで、都合よく世界が作られてしまっており、作者が「こうしたい」という想いが強すぎる。予定されているであろう未来へと向かっていくのだから、謎解き要素は確かにあるのだけれども、緊張感はあまりなく感じられた。

 それでも、僕は目を離せなかった。文庫本の上下巻合わせて1000ページを超える作品を二日で読み終えた。後に残ったのは茫然とするほどの、それでいてどうにも説明できない感動だった。

 なぜ感動したのか。およそ一般受けしないであろう物語の何が良かったというのか。その頃の僕はなかなか答えが出せなかった。どうしてだろうと考え、理論を組み立てようとしても上手くいかない。細かく調べると粗だって見えてくる。登場人物だって、同じ学校の人たちなのだから仕方ないのだけれど、みなどこか共通して冷めた視線を持っている。それでいて暴力的な人やだらけた人はいない。傍から見ればいい子たちだけで作り上げた物語だ。正直なところ、好き嫌いが分かれると言ってしまっても差し支えないだろう。

 だけどそれでも、僕はこの作品を忘れようとはしなかった。

 今なら、少しだけわかる。僕の頭は一般論に影響を受け過ぎていたのだ。みんなが面白いと言えば面白い、というような受動的な感想の持ち方をいつの間にかしてしまっていた。感動の本質は、感動する人の多さじゃないのだと、ようやく少しだけ見えてきた。

 僕が『冷たい校舎の時は止まる』に感動した理由は、シンプルにひとつ。「あの作品が、僕の感性に合っていた」からだ。

 理屈を捏ねればいくらでも批判はできる。都合よすぎると突っぱねることもできる。しかし僕は受け入れることができた。作中の登場人物たちの気持ちが痛いほどに伝わってきて、謎が解けていく様に心地良さを覚え、途中で涙を流していた。理屈では説明できない。僕はこの小説がとても好きになってしまったのだ。

 その後、辻村深月の他の作品を手にとってみたが、やはりいい子がたくさん登場する物語だった。だけどもちろん面白くて、ほれぼれするほど伏線が見事に回収されていく様子は楽しさに溢れていた。

 ある作品について、僕は楽しめたけど、他の人からは否定の声も上がっているとしよう。それは確かに怖いことではある。だけどその批判は自分で聞き、何かを感じなくてはならない。忘れちゃいけないし、忘れたふりをするのもいけない。本当に有意義な感想を書きたいならば、自分だけが抱いた特殊の感情を上手く表現することが最終目標となる。たとえ批判に晒されようとも。