雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)

 こんばんは。

 あるいはおはよう。

 もしくはこんにちは。

 想像ラジオです。

 こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中だけでオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることが出来るし、カンカン照りの昼日中に早朝の僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。

 軽快な語り口調が、冒頭からそのまま一章全体で徹底されている。全五章のうち、一、三、五章が同様の形式だ。語っているのは、「木の上に吊るされている誰か」。自らをDJアークと名乗る彼のトークが、『想像ラジオ』のメインであることは、言うまでもないだろう。

 読み進めてわかることだが、この本は東日本大震災に纏わる本だ。DJアークが木に吊るされているのもおそらく津波に流された衝撃のため。彼は今避難区域内にいるため、誰の目にも触れない場所にいるらしい。実際にそのような人の姿があるかは誰にもわからない。誰もそこへ入ることを許されてはいないのだから。しかし現実として、誰の目にもさらされていない遺体が、未だに大量に放置されているのだろう。

 彼が話す内容は多岐に渡るが、難しい内容じゃない。それこそラジオのトークのように、聞き流して構わない些末な事柄だ。時折リスナーからの「お便り」を伝えたり、今まで出会ってきた人々のこと、自分の残してきた家族のことを愛おしく熱く語ったりする。どこにでもありふれて、それでいてDJアークにしか語れないことだ。

 二章、四章では別の人が出てくる。今の世界で、このラジオの存在を知る若者の「私」。彼は復興ボランティアに参加するたびに、何を言っているのかはわからないが確かにラジオの音を聞いていたという。

 二章では、彼は福島のボランティアから東京へ向かうバンの中にいる。ラジオの話から、死者が意志を伝えるのかという議論になり、そしてボランティアの必要性にまで発展していく。

 ボランティアをする彼らは、被災者から離れた人たちだ。「お前に何がわかる」と突っぱねられることだってある。その現実を知り、見返りを求める行為はやめるべきだと主張するものもいる。それは偽善だ。死者が意志を伝えているというのは、だからこそ、思い上がりなのだ、と。

 しかし、とそこで反論があがる。情熱を失ってまで、ボランティアをして、それで何があるのだろうか。

 最初はそういう全員にチョー憧れてて、自分の名誉欲とか徹底的に捨てようとしたし、役に立つことへの、なんだろう、自分が自分にリスペクトみたいな気持ちを抑えに抑えたけど、どれだけ欲を減らしたつもりでも現地の人たちにその坊さんみたいなたかのくくり方がむしろ気に入らねえって言われた~(中略)~亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けていることを禁止にしていいのかってことなんだよ

 行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの公道はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか。

 想像することは偽善なのかもしれない。しかし想像さえしなければ行動は起こせない。おそらくあの震災の最中、日本中で湧いた葛藤のひとつがこの第二章に如実に現れている。

 三章、四章で書かれているのは小さな奇跡のエピソードだ。想像ラジオの、まさに想像の影響が及んだ挿話。内容は文章だからこそ書けるものだ。これを絵で表すことは到底できない。だからこそ想像のし甲斐がある。『今、文学だからできること』とは、本の帯に書かれていた言葉なのだが、この想像の力に迫る箇所でよくよく思い起こされた。

 生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ

 これは四章での言葉だが、この章を読めば、この言葉の意味するところは視覚的にも理解できるだろう。相手がいるからこそ、人は人としてあることができるのだと、改めて気づかされた。

 五章はDJアークのトーク。そして、ラジオの終わるときが描かれている。想いを伝えるとは何か。どうして人は想像するのか。DJアークは一人の人間として、悩みぬき、そして答えを見つける。

 震災の記憶はまだまだ新しく、題材に選ぶのはとても難しい。なぜなら書いている人も、読んでいる僕たちもまだ当事者意識を持っているからだ。客観視するのには、まだいくらか時間が掛かる、そんなことを震災の後に内田樹が言っていた。

 ここ最近になって、東日本大震災を題材とする小説が目に入るようになった気がする。この『想像ラジオ』もそのひとつだが、正直なところ買う直前までその内容を見ていなかったため、多少動揺した。そうか、もうこれが書かれる時期なんだな。すっきりした可愛げのある表紙も手伝って、震災を全く別の角度からとらえようとしている気概がうかがえた。

 お話としてはとても短い。200ページもないし、きっとテーマとしては二章までで終わっている。後半の収束を蛇足と取るか、快い結末と受け取るかがこの話を好意的に受け取るキーとなるだろう。しかし、ほんの少しでもあの震災に関わりを持った人ならば、文章を読み進めたくなる何かしらを感じるのではないだろうか。