雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

ネタ化する物語について

 一日のうちの数時間を他者とのコミュニケーションのために割き、常にネット空間へのアクセスを維持し続けることが求められる時代にあっては、文化の役割も変質する。人は今や、感銘を受けた作品について他者と語り合うのではない。他者と語り合うための素材を求めて、それに適した作品を探すのである。かくして今日、マンガ――に限らず広く大衆娯楽全般に言えることだろうが――に求められるのは、始まりと終わりのある一つの物語などではなく、他者とのコミュニケーションのための断片的な素材、いじったりツッコミを入れたりできる魅力的な「ネタ」に過ぎない。

 

――『文學界』八月号 私とマンガの個人主義(三輪健太朗)より引用

 

 この後に続く文章で、著者である三輪さんは局所的視点であることを認め、大衆娯楽がそもそも人々のコミュニケーションの一環として受容されてきた事実にも言及し、その通りだと首肯している。しかし、それでもという反論の形で手段と目的の取り違えを見逃すわけにはいけないと述べている。夏目漱石の講演、『私の個人主義』の中で語られた言葉を踏まえ、個人主義の孤独に触れているエセーだ。

 

 作品に個人としていかに向き合うか、この問いかけはマンガや小説に限らず、アニメーションや映画、絵画、音楽、様々な分野にも通ずるものだろう。流行りの話題作ばかりに飛びついて刹那的に感想を述べていく姿勢はまさに大衆的だ。その大衆的な受容が促進された結果、引用文の中で触れたような「作品のネタ化」が起きているという観方に付いては、私としても感ずるところは多々ある。

 ひとつ最近の好きな映画やアニメの話をするにしても、作中のストーリーよりも局所での急展開の話題性ばかりが目に付くようになった気がする。あの作品と言えばこのシーン、この曲、この演技、という等式めいたものが頭のなかでできている感じだ。いつの間にか、作品をネタにするための抽象化が起きている。なんでそんなことが起こるのかといえばやはり他人と感想を共有するためなのであろうが、抽象化が突き進めば曖昧な印象や感銘は削ぎ落とされてしまう。徹底して作品を消費していってしまう。

 考えてみれば恐ろしいことであり、もったいないとも思えてしまう。

 

 どの部分で感銘を受けたかは、本当はその人ごとに違ってくるべきものだろう。自分の経験と照らし合わせてかもしれないし、自分の価値観をかんがみてかもしれない。とにかく自分の琴線に触れる場面、文章、音楽などがあれば、それが感銘へと繋がっていく。

 感想を共有する以前に一定のネタを求めてしまうのは、他人と違う感想を抱くことを知らず知らず恐れてしまっているからかもしれない。この作品にはこのような感想を抱くのが当然だと、結論をつけておけば安心できるから。

 しかしその安心は、作品を鑑賞する目を妨げうる。自分がどう考えているのか、どう受け止めているのかを知るためには、安心を捨てて生身で作品と向き合わなければならない。自分の頭で考えなかったら自分としての感想も抱けず、やがて流行から外れた作品を忘れてしまうのと比例して、心の深いところに沈み込んでいくだろう。

 

 とはいえ、自分らしく向き合うとはいっても、思い込みを持ってしまうことはありうる。他人の意見を聞かなければ自分の過ちには気づけない。また、どうしても知識が足らなくて如何様にも解釈できないときもある。

 そのときに初めてとるコミュニケーションが、本当の意味で価値のあるコミュニケーションなのだろう。もしもそんなふうに語らえる場所があるならば、それはとても幸せなことだと思う。