第七回文学フリマ大阪に出店します
文フリ大阪に初出店するので、その告知です。
概要
日時:2019年9月8日(日)11:00~17:00
当サークル「鳴草庵」はC-08です。入口入ってちょっと曲がれば、います。
頒布物
新刊:拡張現実試論
僕は物語によって現実と向き合うことができるようになった。それを僕は「拡張」されたと思っている。(あとがき 私的「拡張」論考より)
「もしもの世界」、「対等関係」、「生命の超克」、「成長痛」、「伝え、贈る」……がむしゃらに物語を書き続けているうちに見つけた5つのテーマを扉として、各7作ずつ、合計35作の短編を収録。
2014年から2018年までの活動報告ともいえる、僕の集大成となる短編集です。
そういうのを初参加の会場に持って行くのはどういうことなの、と思うかも知れないのですが、いいのです。
準新刊:火竜の僕は勇者の君と一度も言葉を交わさない
2019年3月に発刊した、夢と現実が交錯するファンタジー小説です。
イラストはDragon House( https://twitter.com/mofumofu_house
同タイトルでカクヨム様にも公開してありますが、美麗な表紙が手に入り、かつ番外編まで読めるのは物理書籍だけですよ!
既刊
From AI to U
感情のはじまりにまつわるゆるやかなSFです。
C'mon Spice!
カレー王になりたいと言って失踪した友達を見つけたかった。
綾は千々、されど同じ学舎の中で
学校を舞台にした短編集です。
委託
JAM(月と缶チューハイ作 執筆者は雲鳴です)
好き勝手やらせてもらった短編集です。
おまけに
拡張現実試論の宣伝で散々謳っているとおり、私は2014年から執筆活動を始めています。(などといいつつ、拡張現実試論のあとがきで2013年と書かれているのをみつけてしまいましたが、誤字です)
その年に私は大学を卒業し、社会人になりました。小説を書いてみたいと思ったのもちょうどその頃で、仕事の合間に書いていた形になります。
なんで書いていたのかというと、なかなか上手くは説明できませんが、何かしら残したかったんだと思います。
意識して作っていたわけではないのですが、社会人になることへの不安、人付き合いが苦手で、上手に生きていけない自分への焦り、そういった感情が混沌と渦巻いていたものが、短編小説の形で少しずつ漏れ出ていたように、今では思います。
「拡張現実試論」はごく普通の短編集としてお楽しみいただける作りとなっています。
そして、この短編を書いたのが、先ほど述べた不安や焦りを持った20そこそこの人間が書いたと意識してみると、また違った読み方ができるかもしれません。
この短編集が読者の方々にどのような印象を与えるのか、私自身楽しみでもあります。
初参加となる文フリ大阪での頒布ということで、いつも以上に多くの方の手に取ってもらえることを期待して、この記事の終わりといたします。
9月8日をお楽しみに。
また、この作品は11月の文フリ東京後に通販しようと思っております。(まさか在庫は残っていると思うのですが)
どうぞよろしくお願いいたします。
読書するコツ
久しぶりにブログを書いてみたくなった。
今年の前半に書いたものは、続けようという意気込みが強すぎて、読み返すと少し恥ずかしい。
ただ、この意気込みと反動の負の連鎖は、今回のブログテーマにちょっと絡んでいたりする。
今回は本が読みたいけど時間がないという人へ向けて、継続して読書をするコツを書いてみる。
全て自分の実感によるものなので、誰にでも通じるものじゃないことをご承知おきください。
メモを取る、線を引く、付箋を貼る、等々、手間のかかることはしない
読書体験を活かしたいという人は多いだろう。
記録に残したいから、紙や電子のメモに残したり、線や付箋を残して、いつでも振り返れる取っ掛かりをつくる。
このような取っ掛かりは、道理にかなっていて、
仕事であれば、これができないと話にならないくらい重要なことだ。
とはいえ、記録を活用するというのは、結構根気がいる活動だ。
例えば、漫然と書いたメモは、後になって振り返ると、わけがわからなくなったりする。
目的意識がないと、メモはただの文字列以外の何物でもなくなってしまう。
線も付箋も同じことで、それが何を意味しているかを把握しておかないと、活用はできない。
それでも、メモを取ることが楽しいというなら、それで良いのかもしれない。
活用するために読むというのは、なんとなく利己的な気がして、たしかに自分も苦手だ。
しかし、メモを取るという行為が負担になり、読書をしない理由づけになってしまうこともある。
今は紙がないから、ペンがないから、付箋がないから、今日は読書はしないでおこう。
こんな感じで、読まない理由が増えてしまうと、読書に進む意欲そのものが削がれてしまう。
だから、特に強い意志がないならば、余計なことはしない方が良い。
心配しなくても、本気で気になった文章は案外頭に残るものだ。
完璧にとはいかなくても、引っかかりの名残みたいなものはきっと残る。それを頼りに読み返すのも良い。
それさえも残らなかったら、もう気にしないで良いんじゃないだろうか。
一度に読むのは、10ページ以内にする
読み慣れている人からしてみたら、10ページは少ないのかもしれない。
しかし、慣れてない人には難しい。
僕自身、いつまでたっても文章を読むのは苦手だった。
10ページしか読めない自分に焦りを抱いたりもしていた。
しかし、小説というのは案外、10ページも進めば何かしら起こるものだ。
空白なわけではないのだし、それらのページだけでも進めばそれは十分読み進めたということになる。
10ページずつを、積み重ねれば、止まらなければ、500ページだって10冊だって読み進められる。
また、これは紙の本に限った話だけど、大抵の本は下部にページ数が書かれている。
それをあえて見ないようにする人もいるだろう(例によって自分がそうだった)
とはいえ、このページ数を活用することもできる。
十の桁だけを気にするようにして、さっき見た時から変わっていれば、だいたい10ページは読んだだろうとわかる。
よし十分読んだなってことがわかったら、容赦なく休んだ方が良い。
読み進めるかどうかはその後で考えれば良い。
休みまくる
本を読んでいると、体勢が固まる。
じっとしていれば、血行が悪くなって、ジワジワと頭が働かなくなる。
多かれ少なかれ、何をしていても疲労が溜まる。
本を読むときもあてはまる。動いていないから、疲労に気づきにくいだけだ。
疲れたら、などと判断する間も無く、何かをしたら少し過剰なくらい休むと良い。
本当に疲れていたらもうやりたくないと身体が反応するはずだ。
行けそうなら次のページ。無理そうならもうやめて、別のことをした方が良い。
だいたい読書はそんな無理をするようなものじゃない。
読んでいる途中で気になることが思い浮かんだら、早くそっちに行った方が良い。
その本か手元にある限り、いくらだって読めるのだから。
そもそも読書をするんだ、などと意気込まない
どうも人は、無意識のうちに物事を大事に扱おうとする。
先にあった記録を残すというのは、それがただの時間潰しじゃなかったんだぞと刻み付けるようなものだ。
大事に扱うというのは、意気込むということだ。
読書をするのだから、やるべきことは全部終わらせよう。
できればお茶やお菓子を用意して柔らかいクッションに身を埋め、本は書見台に挿して優雅な時を過ごす覚悟を決める。
そんな感じだから、いつまでたっても読書が始まらない。
読書を続けるつもりなら、それを高尚な行事にはしないことだ。
息するようにとはいかないまでも、日常の間隙を埋める手段の一つとして考えた方が、いつまでも続けられる。
できれば続けているということ自体も奢らない方が良い。
続いたって、続かなくたって良い。いつだってやめることができて、いつでも再開できる。