雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。創作サークル綾月所属。個人サークル鳴草庵代表。

2016年の読書遍歴を総括する(前半)

 毎年この時期になると総括記事を書きたくなるものです。

 いつもは読んだ本をまとめて羅列して、いくつかお薦めの本をピックアップする、という形式でしたが、だんだんしんどくなってきました。

 そもそも羅列することにどんな意味があるのか考えて、それよりはもうちょっと掘り下げてみたい。

 というわけで、今回は流れを重視して、自分が一年間どのようなことを考えながら読む本を選んできたのかをざっくりまとめてみたいと思います。

 

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BOOKOFFに1970年代の本を探しに行って懲りた話。

 『いつか王子駅で』(堀江敏幸新潮文庫・2006年発行)を読了した。

※この記事の発行日は文庫本のそれです。

 

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【文フリ感想文】多様な文藝に触れながら――『棕櫚 第5号』(マルカフェ文藝部)

 何度か足を運んでおります、マルカフェ文藝部。

 マルカフェっていうのは、東急池上線御嶽山駅からほど近いところにある「大人のための週末カフェ」。時間に余裕があればまた行きたい、なんて思いつつ結局僕はまだ一度しか行ったことがない。それなのにどうやら店主さん方に顔を覚えてもらえているようで、おそれいります。ありがとうございます。

 

 なんで通うようになったのか、あんまり憶えていないのですが、なんとなく集まって創作活動しているっていうのに惹かれたんだと思います。自分はそういう活動をずっと一人で行ってきたものですから、興味が湧いたわけですね。

 マルカフェの傾向が自分にぴったり来ているかというと、実は素直には首肯できない。でも読んではみたい。総合文芸誌という触れ込みのとおり、多種多様な創作活動があるってことに気づかせてくれるアンソロジー。それが『棕櫚』ですね。改めて、第5号発行おめでとうございます。

 マルカフェについての説明はこちらのホームページにもありますよ。

 

 内容について軽めに。

 今回の自分のお気に入りは小説『スパイス』(石川友助/挿絵・Kazu Tabu)と、随筆『Resurface-d』(Kazu Tabu)です。

 『スパイス』はシュールな舞台設定がまず魅力的で、何が起こっているのか読み込むとどんどんこの村の世界観に引込まれてしまう。そんな振り回される感覚がまた楽しかったです。

 『Resurface-d』は、自分が随筆好きというのが大きいのかなと。人の考え方を見たり聞いたりする。自分以外の経験を知って、プラスになったり、あるいはもっと別の方向を見てみたくなったりする。そういう意味ではこちらの随筆、決して穏やかな話ではないけれど興味深く読ませていただきました。

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【感想文】命を賭して戦うということ――『聖の青春』(映画)

なんとなくまだ胸の内がざわついていた。不調というか、不安定というか、このまま仕事の日を迎えるのも憂鬱。気を落ち着けようと東京へ向かった。

 目的は往路で考えた。

 電車に揺られながら映画を調べて、『この世界の片隅に』と『聖の青春』で迷って、結局後者にした。

 

 映画の内容は事前に知っていた。

 二十九歳で夭折した天才棋士村山聖松山ケンイチ)。羽生善治東出昌大)との対局を軸に、彼の最後の数年間の生き様を描く。死を宣告された男が、文字通り命を賭して、戦いに身を投じる。

 決して明るい物語ではない。死にゆく上での覚悟等が主題だろう。そう予想して、下降気味のテンションを張り詰めさせてくれないかな、なんて曖昧な期待を寄せた。

 上映時間を見誤って翻弄され、最終的にはお昼前の銀座での視聴となった。

 

 結果として三回泣いた。以下、ネタバレは気にせず書き進める。

 

 一度目は村山聖が弟子、江川(染谷翔太)に激昂するシーン。戦いに負けて将棋を諦め、第二の人生を歩もうとする江川に対し、村山は「死ぬ気」のないことを喝破する。江川が好青年として描かれているだけに、キツい口調で責められる姿は胸が痛いし、あまり感情的なタイプではなさそうな江川が怒りのボルテージを高めていく様ははっきりと感じ取れた(それはそれで目を見張る演技だったと思う。緊張感が溢れていた)。

 対して、村山の「死ぬ気」は文字通りだ。病気のために死がすぐ傍まで待ち受けている村山にとって、将棋以外に生きる術はない。生きるために指しているのであり、第二の人生など考える隙間もない。江川に対する酷い言葉の羅列は、将棋に対する強すぎる思いの裏返しだ。負けた者は生き残れない。そこで死ぬ。江川に言い聞かせる言葉はまさに村山自身が自分に言い聞かせていることだったのだろう。

 痛々しくて、それでも目が離せなかった。死ぬ気で頑張ったことがどれだけ自分にあっただろう。そんなことを頭の片隅で思って、何も思い浮かばなかった。

 

 二度目は村山と羽生が居酒屋で夢を語り合うシーン。窓の奥で降る雪のスローな動きも相まって、二人が並び座っている姿は浮き世離れして見えた。終着点の見えない夢を楽しげに語らう二人。村山には死が待ち受けているけれど、羽生にとっても、将棋がこれから先の人生から離れることはない、という点では村山と同じだったのだろう。

 将棋の魅力に取り憑かれた時点で二人は同類だ。そして村山にとって、その瞬間こそが最も大切な記憶となる。羽生と並んだ記憶が彼の生きるエンジンとなり、同時に羽生に遅れを取るまいとする想いが彼の病気を悪化させた。彼の夢は活力であるとともに呪縛でもあった。

 悲しい、と偏に断ずるのは良くないだろう。とにかくそれは喉が熱くなるほどの美しいシーンだった。

 

 三度目は最後の対局。こればっかりは、この緊張感だけは、見てもらわないと伝えきれない。

 後で調べたことだけど、この対局については松山ケンイチ東出昌大がお互いに村上聖と羽生善治棋譜を頭にたたき込んで長回しで撮影を行ったそうですね。その意気込みに値する名シーンだったと思います。

 

 あと良かったと思ったのは、村山聖の生活感が出ているところ。気性が荒かったり、将棋以外のことは怠惰だったりと、村山の人間臭い一面がしっかりと映されていた。死を前にして聖人のように清らかになるのではなくて、戦う人として臨む姿。すぐ傍にも居そうにも思える。だけどきっと、滅多に出会えないタイプの人だ。

 

 総じて力強い映画だった。見て良かった、と今なら言える。死ぬ気で、とはなかなかできないにしても、もうちょっといろいろ頑張りたい。そう思いながら、映画館を出て早速吉野屋へと駆け込んだ。カルビ丼に玉子と豚汁、美味しかったです。

夜だから独り言。

 僕が中学生の頃、親からゲーム禁止令を言い渡された。ゲームの購入もプレイも禁止。当時持っていたニンテンドー64ゲームキューブプレイステーションのソフトは全て親戚に預けられ、帰ってくることはなかった。携帯ゲーム機は何故か家に置いてあった。だから親の目を盗んでちょっと古めのゲームを遊んではいたが、そのうち電池が壊れてどうしようもなくなった。

 禁止の理由は「視力の低下」だと親は言い張っていた。実際視力はどんどん落ちていたし、ゲームは目に悪いというのが当時の常識だったものだから、僕にはどうにも言い返せなかった。言葉ではどうにもならなかったので、僕はベッドで夜通し泣き叫ぶことで抵抗の意思を表明した。「うるさい」と何度か怒鳴られて声は弱めたが、泣くこと自体はやめてはいけないと自分に言い聞かせ、必死で声をからした。

 当時、僕には目立った趣味もなく、特技もなく、ゲームをすることだけが楽しみだった。ゲームさえ持っていれば友達を呼ぶ口実になった。喩え興味のないジャンルや苦手なジャンル、よく知らない作品の続き物であっても、流行っていればとりあえず手を出して家に置いた。「そのゲーム、うちにもあるよ」と学校のクラスで伝えて「友達」を家に呼ぶ。

 当時の僕にとってみればそれは必死に友達を僕と関わらせる営みであって、親に邪魔されるのが苦痛だった。

 それがどんなに歪んだ観念で営まれる無意味で不気味な行為だったか、それを毎日のように見せられる親がどんな気分になっていたかまでは、僕は考えが及んでいなかった。そんな余裕もなかったのだろう。痛ましく思うが、やはりはっ倒したくなる。

 どうにかして「友達」を作りたかった。「友達」ができなければ人生は終わり。なぜなら「友達」でない人はいつでも僕を攻撃しうるから。当時の僕は本気でそんな心配を続けて、不器用な人付き合いを繰り返していた。

 いったい他者からどう見えていたのか。いじめみたいな大それたことは何もされなかったのに、未だにときどきフラッシュバックする。何とかして普通の人であろうとしている自分を、他者として見つめるという妄想。醜悪さに目を閉じたくなるけれど、胸の内から沸いてくる不快感はなかなか消えてくれない。見える見えないの問題じゃなく、自分の行いそのものは過去の事実なのだから、違っていると否定することができない。ただじっと無表情になって、痛みの波が引くのを待つしかない。

 

 人付き合いが苦手であることは結局変わらなかった。不器用な付き合い方はさすがに不味いと思って、無理矢理人の気を引くような真似も抑えるようにした。距離を置くこと。無理矢理人付き合いするくらいなら逃げること。高校時代は、内面的にはダメダメだったけれど、勉強という言い訳があったから逃げられた。大学生になってからも、少しいびつではあったけれど、勉強していればおかしくは見られなかった。

 学生の身分でいるうちは、他人と距離を置きっぱなしでも構わなかった。近づきたくないなと思ったら無表情で突っぱねることができた。いろいろな面が許されていて、そういう人もいるよね、で収められていたと思う。

 社会に出たらそれができなくなった。というか、してしまったときに被る不利益が半端じゃなくなった。苦手な人を単純に嫌うばかりだと信用も失うし効率も下がるし何よりも精神的に圧迫される。ド正論でぶん殴られることもある。人と交流するというのは人間の一側面という単純なものではなく、圧倒的な正義の側。できないものは落伍者だ。

 耐えようと思って、無表情を貫こうとしても、どうしても臨界点がある。身に染みると涙腺が緩む。どうにかできない自分がもどかしい。

 

 何がどうしてどうなっているのかわからないまま、とりあえず他人に傷つけられないように生きている。そのためには他人を傷つけないことが絶対条件で、気を遣いすぎていたら他人に自然に近づけなくなった。別に下心があるわけでもないのに、他人に近づく行為そのものが今は畏れ多く感じる。何が普通なのかわからない。何となくおかしいのはわかるけれど、そのおかしさを取り除く術がわからないまま恥じ入ってしまう。

 変わりたいと思えるときに変わった先のヴィジョンが見えているかどうか。僕は全く見えていない。先ほどから普通と言っているのは概念としての「普通」であって、明確にこうすれば普通、というものではない。

 普通の人なんていない、だとか、みんなそれぞれ苦しんでいる、だとか、そういう言葉はもちろん知っている。事実だとも思う。ド正論だ。だけどそれとこれとは別の話だ。「普通」になりたいと言っている人にそれは違うと首を振られても、それでも僕は「普通」になりたい。

 これでも「普通」という言葉の使い方に違和感があるならば、きっと僕の「普通」の概念は歪んでいるのだろう。だとすれば僕が求めている「普通」というものはまた別の言葉で置き換えられなければならない。そうしない限り答えはでない。でるわけがない。問題提起が間違っているならば考えていても仕方がない。

 いったい何が間違っているのか。どこから間違ってしまったのか。わからないまま、今年がまた終わろうとしている。これから先、無事に生きていられるのかもわからない。自信をつけろとは思うのだが、そもそも自分には自信がないのだろうか。何かがない。その何かがわからない。そうしてまた無表情となり、平気なフリしてストレスを抱え込む。終わらないなあ。

【文フリ感想文】清楚さの裏側に見られ、見つめられる――『スロウレイン』(青樹凜音/月と缶チューハイ)

 最初に読み終わった作品の方がTwitterをしていないみたいでしたので、いつものようにTwitterに垂れ流すばかりでなくブログにでも書き置きしておこうと思い立ってみました。

 

 「月と缶チューハイ」というサークルで頒布されていた、青樹凜音さんの『スロウレイン』です。

 そもそも最初に「月と缶チューハイ」の方(青樹さんかどうかは確認不足です)が僕のブースにお立ち寄りくださいまして、ほぼ直感で拙作を買ってくださったお礼返しの意味合いで寄らせていただいた次第です。

 

 以下、『スロウレイン』について。

 山の神木の木霊である「花音」は、とある辺鄙な神社に守り樹として挿し木された。最初のうちは不満を抱いていたものの、手入れをしてくれる巫女の結衣の真面目で清楚そうな雰囲気に好印象を抱き、心惹かれる。山での記憶は次第に薄れ、結衣への感謝を初めとする感情が芽生え始め、誰かと触れ合いたいと願うようになる。

 やがて始まる、結衣や他の妖たちとの接触。話し始めて初めて、本心や翳りが見えてくる。いつでもはぐらかしたり、花音をもてあそぶような結衣に対して、花音も段々と欲望を持ち始める。

 

 それは嘘だと私にも分かっているのです。本当に毛嫌いしているならば近寄ることなく離れる。ましてや会話などはしない。だけどこのように嫌みを口に出しながらも、付かず離れずの距離を保つ。その理由はただ一つ「私を手放したくない」から。

(スロウレイン 後編――2)

 

 

 冒頭から死を予感させているように、退廃的な雰囲気が物語中に感じられます。喋り方には軽妙さが窺えるものの、見えてくる物語はどことなく湿っぽい。淡い表紙や丁寧な文体には清潔感があるけれど内容は意外と突っ込んでくる。

 そんなギャップをおっかなびっくり楽しみながら、最後までじっくり読むことができました。

まあそんな驚きも、ちゃんと裏表紙の「同性愛官能小説」って文字を読んでいたらもうちょっと和らいだのかもしれませんが。

 

 ところで最後の方、割と重要なところで文章が途切れているような・・・・・・敢えてでしょうか、それともただのミスでしょうか。ちょっと気になるので、時間のあるときにサイトの方を確認してみようかな。

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【感想文】怖さと可笑しさのうらおもて――『夜行』(森見登美彦)

「どうして夜行なんだろう」

 私が呟くと、画廊主は微笑んで首を傾げた。

「夜行列車の夜行か、あるいは百鬼夜行の夜行かもしれません」

 

 

 十年前の鞍馬の火祭、英会話スクールの仲間の一人が失踪した。何一つ手がかりは残されておらず、虚空に吸い込まれたかのように彼女は消えた。

 十年後、東京で会社勤めをしている「私」こと大橋は、英会話スクールの仲間と一緒に鞍馬の火祭を見物しに京都へ赴く。待ち合わせの時間までを潰す途中、懐かしい感じのする背中を見る。ちらりと見えたその横顔は、失踪した長谷川さんにそっくりだった。

 彼女に連れられて入ったのは「柳画廊」開催されていたのは「岸田道生個展」だった。銅版画家である岸田が残したのは「夜行」と呼ばれる四八作の作品群。鞍馬、尾道奥飛騨津軽天竜峡・・・・・・日本各地を舞台としたその作品は、天鵞絨のような黒の中に、顔の無い白い女性がいるという共通点を持つ奇妙なもの。長谷川さんに似た女性を探すものの、画廊はそんな女性は知らないと言う。

 やがて再会した英会話サークルの面々。岸田画家と「夜行」の話を振ると、なんとみなその作品群を見たことがあるという。やがて彼らは一人、また一人と「夜行」にまつわる不可思議な経験談を口にし始めた。

 

 私にとっては数ヶ月ぶりの森見登美彦。作品の雰囲気は、随分意外に思える。でも不可思議な現象や独特なキャラクターは健在。それなのに怖い。十分に怖い。思うに、奇妙な人々が織りなす奇妙な物語が面白かったのは、それが面白いと思える雰囲気の中にあったからなのかもしれない。面白さと怖さは実は元々表裏一体だったのかもしれない。

 

「さあね。僕らはどこにいると思う?」

 岸田の声が遠くから聞こえて、自分を包む闇がふいに広大なものに感じられた。

「この闇はどこへでも通じているんだよ」と岸田は言った。

 

  人は夜にしか動けないけれど、夜にもたしかに世界が広がっている。むしろそちらこそ本当の姿なのかもしれない。

 

夜行

夜行